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村ぜんぶを美術館と呼び、豚舎を集会所に、空き家や倉庫を展示場にした。デング熱の流行で1年余り止まった

土溝農村美術館

台湾 / 台南市 / 台南市後壁區土溝里

村ぜんぶを美術館と呼び、豚舎を集会所に、空き家や倉庫を展示場にした。デング熱の流行で1年余り止まった
© 土溝農村美術館(公式ブログ) — この写真が載っている記事

2013年11月の宴会は門票の所得が約150万台湾元だった。2017年8月の記事は、デング熱の流行で入場料の収入が足りず店がみな一時休業し、美術館に関わる動きが1年余り止まったのち、その年の夏に再び始まったと書いている。

何をしたか

台南市後壁區の土溝里で、村ぜんぶを美術館と呼ぶ取り組みが2012年12月に始まった。2002年に台南藝術大學の学生が村へ入り、地元の土溝農村文化營造協會と一緒に、村に残った水牛の小屋を直し、大きな木の下の空間や塀に手を入れることを重ねてきた。

その延長として「村は美術館、美術館は村」を掲げ、三合院の前庭・空き地・路傍の塀・個人の倉庫・家屋など17か所を企画の展示場にした。開幕の日の主展示場は、刈り取りの済んだ稲田だった。80歳を過ぎてから絵を習った住民の家の客間も展示場になり、使われなくなった豚舎は集会所や図書室に改められた。

美術館の計画の経費は、行政の補助によらず民間の募金で集めたと光華雜誌は2013年2月に書いている。2013年11月には千人規模の宴会を開いて資金を募った。

誰が始めたか

先に村にいたのは地元の協會である。 上下游新聞は2012年7月11日に、台南市土溝農村文化營造協會が2001年4月7日に正式に登記されたと書いている。光華雜誌(2013年2月)によれば、協會を作った地元の働き盛りの初めの願いは、故郷の環境をよくし、人情味と尊厳を取り戻すことだった。同誌は、長く協會の總幹事を務めた1964年生まれの蘇朝基が義勇消防・木工・農業を兼ねる村に残った数少ない青壮年であること、もう一人の中堅である廖國雄が若い頃に台北でアニメの助手をし、帰郷後はケーブルテレビの地方記者として社區營造の事例を見てきたことを書いている。廖國雄は、以前の土溝の人は自分を白河人と名乗るのが習わしで、故郷に特色が無く落ちぶれていると感じ、外の人が見つけられるとも思っていなかったと述べている。

大学が入ったのは2002年である。 同誌によれば、前台南縣副縣長の曾旭正が台南藝術大學建築藝術研究所で教えるようになり、2002年に社區營造組の学生を連れて土溝へ実習に来た。そのうち4人が住民と特に気が合い、たびたび村へ来て茶を飲むうちに、しだいにここを家と思うようになったと書かれている。きっかけになったのは水牛だった。 上下游新聞(2013年11月11日)によれば、南藝大の若者たちは、かつて300頭あまりの水牛がいたこの村に最後の1頭しか残っていないのを知り、地元の文化協會と組んで10年の農村改造の計画を始めた。光華雜誌は、2005年に村で唯一水牛を飼っていた住民の同意を得て、協會と南藝大の学生が村人に呼びかけ、老いた牛のために土角厝を直したと書いている。1983年生まれの陳昱良は、その過程でほぼ村じゅうが動き、年寄りが自分から袖をまくって草を刈り、レンガを運び木を植えたと述べている。

芸術の側の出発点も水牛である。 藝術家雜誌(2017年8月)によれば、村で最初の公共芸術は代天府の正面に置かれた石彫りの水牛で、初期には住民がこれを神像と取り違え、自発的に花や供物を供える出来事が起きた。関係者が住民と話し合ってその言い伝えを鎮め、像は作品の身分に戻ったと同誌は書いている。同誌で黃鼎堯は、15年前は芸術と農村が交わらない2本の平行線であり、当時の政府が進めていたのは公共藝術と社區營造の計画で、農村に向けた政策は無かったと述べている。2013年時点の協會理事長は吳冠霖、展示を企画した「優雅農夫藝術工廠」の執行長は黃鼎堯、美術館の執行長は呂耀中である。

いくらかかったか

総額は、参照した7本のどこにも書かれていない。 書けるのは、お金の出どころが年によって入れ替わっていることである。

開館の費用は民間の募金で集めている。 光華雜誌(2013年2月)は、美術館の計画は準備に1年近くをかけ、経費は行政の補助によらず全て民間の募金で集めたと書いている。同誌によれば、この若者たちは催しの4か月前に、図と文を入れた厚い計畫書を持ってロータリークラブなどの集まりの講演に回り、出し手を探した。陳昱良は、民間の募金を掲げたのは自主性を確かにし、無用な行政の干渉を避けるためで、足りなければ自分たちが出してあとで稼ぎ返せばよいと腹を決めていたと述べている。同誌は、資金の出し手として台南企業文化藝術基金會と立賢教育基金會の2つを挙げている。

それ以前の集落の整備には行政の補助が入っている。 同誌は、前文建會の第二屆「公共藝術獎」で最佳民眾參與獎を受けた〈平安竹仔腳〉の集落公共芸術について、補助款は65萬台湾元にすぎなかったのに村全体の環境の底上げに届いたと書いている。藝術家雜誌(2017年8月)も、協會の草創期の経費の多くは行政の補助であったとし、より多くの経費を集めるには別の計画を実行せねばならず、そのぶん農村美術館の経営に充てる時間が削られたと書いている。2012年に協會が民間から募金するという考えを出したのはこのためだと同誌はしている。

募金の実額が出てくるのは2013年の宴会である。 上下游新聞(2013年11月10日)によれば、2千元の募金門票は売り切れ、門票の所得は約150萬元になった。同記事は、これが台湾の社區の催しの1日あたりの募金収入の記録だと書き、費用を引いた残りは全額が美術館の運営に入るとしている。翌日の記事は、屋外の作品はいつでも無料で見られること、350元の紀念套票(後壁米と自転車の貸出券つき)を買うことも、寄付をすることもできることを書いている。藝術家雜誌は、協會が理念を印刷した計畫書500冊を作って募金に回り、代金を払わずに本を持って行った人から2か月後に10萬元の小切手が届いたという出来事も伝えている。公視「我們的島」(2015年12月21日)は、芸術の側の経費が早い時期の行政の補助から募金へ移り、入場券の仕組みで財源を独立させて社區が自ら回せるようにすることを考えていると書いている。

真似するなら最低何が必要か

1. 村に住みついて10年を数える人。 光華雜誌(2013年2月)によれば、2002年に実習で入った台南藝術大學の学生のうち4人が村に通い続け、1983年生まれの陳昱良は大学院の間ずっと土溝に部屋を借りて住み、学校に戻ったのは卒業前の3か月だけで、兵役の休暇にも戻ってボランティアをしていた。同誌によれば、卒業後に陳昱良と黃鼎堯は組んで会社を興し、月曜から金曜は他の社區の空間の計画を公的部門から請けて自分たちを養い、地元の従業員を1〜2名雇い、夜と休日は土溝の仕事を無償で続けている。呂耀中も従業員約5人の会社を土溝に開いた。美術館が開いたのは、この積み重ねの10年あとである。
2. 芸術より先に、茶を飲む時間。 藝術家雜誌(2017年8月)で黃鼎堯は、協會の初期の難所は経費だけでなく、農村の住民に芸術への納得を持ってもらうことだったと述べ、集落の改造に1年半をかけ、そのうち年寄りに茶を飲みに来てもらうのを説き伏せるだけで1年かかったと述べている。同じ話は樹冠(2019年12月27日)にもあり、最初の集落改造の計画は1年半、うち1年近くは茶を飲んで話していたと書かれている。
3. 展示場になる空き空間と、それを開ける持ち主。 光華雜誌によれば、企画された展示場は三合院の前庭・空き地・路傍の塀・個人の倉庫や家屋など17か所で、ほかに十数か所の装置が住民の生活の場に置かれている。整備された大きな木の下の空間はいずれも私有地であり、場所を出した人は賃料を取らず、少なくとも10年は外部に開放することを保証し、維持の責任も自分で負っていると同誌は書いている。
4. 作品を住民の生活の順序に置くこと。 藝術家雜誌によれば、ソファの形をした〈幸福客廳〉が置かれた空き地は、朝は村民が体を動かして市が立つ場所、午後はごみを出す場所である。黃鼎堯は、作品を置く位置は村民の生活の習慣にもとづいて決めていると述べ、表現は「意味は明確だが実用の機能が無いもの」と「装飾でありながら実用のもの」の2方向で作っていると述べている。同誌は、中正路を牽手路と改めた例や、かつて生垣に使われた扶桑花をモザイクとしてバス停や座席に戻した例を挙げている。
5. 住民の反応でその場から作り直せる作り手。 上下游新聞(2013年11月11日)によれば、門神を得意とする参加芸術家の王國仁は、門に緑を塗って農神を描くつもりだったが、住民が縁起が悪いと難色を示したのですぐに赤に塗り替えた。同記事によれば、住民は塗り替えを見て機嫌が直ったと話している。同記事は、この年に12人の芸術家が稲田・農舎・空き家で制作し、住民が自宅の三合院の前で市を開いたことも伝えている。
6. 開ける日を人手に合わせて決めること。 同記事で美術館執行長の呂耀中は、運営はなお外部からの募金に頼っており、人手が無いため土日しか開けられないと述べている。同記事の注記によれば、当時の展示場の開放は土日の9時から16時までで、屋外の作品は随時見られた。

確認できないものは、事業全体に投じた金額、住民や芸術家に払われた対価の有無と額、年間の来訪者数(催しの日の人出は書かれているが、年の数字は無い)、そして2019年より後の運営の担い手である。 いずれも参照した7本に記述が無い。

今どうなっているか

2026年8月時点で確認できた最も新しい記録は、樹冠 Canopi の2019年12月27日の記事である。

同記事は黃鼎堯への取材で、彼が十数年のあいだに土溝で起業し、結婚し、子を持ってここに根を下ろしたこと、美術館が無から立ち上がるのに加わり、その盛り上がりを見届け、事業の転換も経験したと書いている。黃鼎堯は、藝術季を開くことはある程度まで地方への宣言ではあるが、終わったあとはどうするのかと問い、展示の期間が終わったあとに若者がその土地でどう生きるか、たまった力をどう続けるかが本当の試練の始まりだと述べている。 同氏はまた、台湾では地方で藝術季を開く人が多く、みな催しで地方を揺さぶろうとするが、進める過程で自分たちの「資産」——金や土地や家ではなく、催しでたまった力をそのあとどう転じ、市場につなぐか——を蓄えることが抜けていると述べ、行政の資源については、毒薬ではないがどう飲むかを知らなければならないと述べている。同記事は、次の一歩として黃鼎堯が同じ輪の外へ出て、市場の側の仕事に自分を置くことにしたと書いている。

その2年前には1年余りの中断がある。 藝術家雜誌(2017年8月)は、デング熱の流行で入場料の収入が足りず店がみな一時休業し、美術館に関わる動きが1年余り止まったのち、その年の夏に再び始まったと書いている。同誌によれば、そのとき開かれていた展覧は阮永翰が企画した「風吹夏夏叫雨打秋秋臉」である。この経験から協會は、催しの期間が50日あまりしかなく、それを頼りに起業した若者が食べていけないため、展示を生活のなかに置き直す必要があると考え直したと同誌は書いている。黃鼎堯は、経験をどう受け継ぐか、人材が途切れることが目下の困りごとだと述べ、協會としては将来「駐村」に代えて「住村」の考えを用いたいとしている。

2019年から2026年までを埋める出典は無い。 status_current を「判定不能」としているのはこのためで、2017年の夏に再び動き出したところまでは出典で確かめられるが、その後も開いているかどうかを書いた記述は、参照した7本のどこにもない。

出典

  1. 村是美術館,美術館是村─土溝農村美術館開張囉! — 上下游新聞(2012-07-11)
  2. 土溝農村美術館,開啟新生活美學 — 台灣光華雜誌(2013-02)
  3. 史上第一!土溝農村美術館千人辦桌,本土小農相挺 — 上下游新聞(2013-11-10)
  4. 十年水牛精神,土溝打造台灣版瀨戶內藝術祭 — 上下游新聞(2013-11-11)
  5. 【農村再造】農村是座美術館|土溝農村美術館的故事 — 公視 我們的島(2015-12-21)
  6. 具水牛精神的藝術介入──土溝農村美術館 — 藝術家雜誌(2017-08)
  7. 十六年地方永續的實踐與反思:土溝農村美術館 — 樹冠 Canopi(2019-12-27)

最終確認日 2026-08-19

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